大麦は世界最古の穀物の一つといわれ、およそ1万年ほど前から西アジアから中央アジア(現在のイラク付近)で栽培されていたといわれています。
また、古代エジプトのツタンカーメン王の墓(約三千年前)から、副葬品として納められた大麦が発見されています。
日本へは、小麦よりも早く、1,800年ほど前に中国から朝鮮半島を経て伝わったと考えられ、奈良時代には、日本各地で広く栽培されていました。
お米と混ぜて「大麦ごはん」として食べられるようになったのは、平安時代からといわれています。

徳川家康と大麦
江戸幕府を開いた徳川家康が、麦ごはんを好んで食べていたことは『徳川実記』に記されています。
麦ごはんに胃腸を整えるなどの効用があることを、家康は知っていたのだろうと思われています。
あるとき、家来が気を利かしたつもりで、白飯に少しばかりの麦飯をかぶせて出したところ、「汝等は我が心を知らざるな。やぶさかで麦を食うとおもうか(おまえたちは私の心がわかっていないな。考えもなしに麦を食べているのではないぞ)」と怒るほど、麦ごはんにこだわっていたというエピソードが残っています。

天保大飢饉と二宮尊徳
1833年から1839年まで続いた冷夏により、全国で多くの人が飢えに苦しみました。
当時、小田原藩(今の神奈川県)で飢餓対策に当った二宮尊徳は、備蓄した食糧を支給すると共に、冷害に強い雑穀の栽培を命じました。
そして米より早く収穫できる大麦のおかげで、人々の命が救われたと言われています。

高木兼寛(びたみんの父・麦飯男爵)
明治時代の海軍の軍医であった高木兼寛は、当時大変恐れられていたカッケという病気の絶滅に取り組みました。
当時、カッケは細菌による伝染病と考えられていましたが、兼寛は、食事の栄養欠陥から起こるものと考え、 軍艦の乗組員に麦ごはんを食べさせました。
長期の航海にもかかわらず、乗組員からカッケの発病者が一人も出なかったため、 彼の予防法が広く世界に認められました。
その後、ビタミンが発見され、カッケはビタミンB1の欠乏により起こることがわかりました。
このことから、高木兼寛は「麦飯男爵」や「ビタミンの父」と呼ばれています。

大正の米騒動と押麦の普及
1918年第一次世界大戦によって、日本は好景気に沸きましたが、貧富の格差が大きくなり、一般民衆は生活に不安を募らせました。
富山県の主婦たちが米屋におしかけたのをきっかけに、騒動が全国に広がりました(米騒動)。
この頃、大麦ごはんの普及・啓発活動に力を出したのが、静岡県出身の鈴木忠次郎です。
鈴木忠次郎は蒸気を用いて、大麦を加熱・圧ぺんする技術を開発し、この方法を普及させました。その後、こうした作られる押麦は、今日まで精麦製品の主流となっています。

貧乏人麦を食え
1950年の国会の答弁の中で、当時の大蔵大臣(今の財務大臣)の池田勇人は「所得に応じて、 所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食う」という発言をしました。
これが「貧乏人は麦を食え」というふうに伝わりました。
しかし、池田勇人自身が当時麦ごはんを食べていたことは、あまり知られていません。

現在人と大麦
戦後の日本で、100万トン程度食べられていた大麦は、現在は2万トン程度になっています。
しかし、 現在は健康を気にする人たちを中心に、食べられている量が少しずつ伸びています。
現在、大麦の成分として最も注目されているのは食物繊維 で、 白米の約20倍の量が含まれています。大麦の食物繊維には、生活習慣病を予防したり、お通じをよくする効果があるといわれています

                   大麦探検島より引用 http://ohmugi-tanken.com/history/index.html

大麦の歴史

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